母のこと
2010年 10月 14日
母のこと
2010年10月13日 (木) 晴
朝、洗濯物を干したら、ベランダから近所のある庭を眺めました。
その庭は、秋がぜんぜん訪れてないように、緑に覆われているのです。低い木の葉っぱの後ろから、木綿の鮮やかな花が、たくさん咲いていました。まるで個々の子供の笑顔のようです。
小さい庭でした。
といっても、このあたりでは、もう十分贅沢なお庭です。5坪ぐらいでも。
母の庭は、何倍になるでしょう。私は説明しにくいとき、いつも友達にこういいますーー
「ゴルフ練習場みたい。」と。
家の前と後ろ全部あわせれば、ゴルフ練習場の大きさぐらいかなと思いました。実はそれほどは大きくない気もします。小さい頃の私には、その庭は大きすぎる。今の私には、ゴルフ練習場でも普通の大きさです。
ということです。
小さいころ、他の家の庭には、いつも棗の木や柿の木や、梨の木などあります。うちだけは、ただの庭でした。果樹は一本もなかったことです。
お花ももちろんなかった。
私の小さいころ、周りのお家のお花がすきで、よく分けてもらい、家の庭にも植えたりしてました。でも、弟たちがいたずらがすきで、いろんな水をお花にかけました。長生きできたお花は、菊だけでした。
その白く、丸い小菊は、秋の青い月光を浴びた様子を、私は一度だけ見たことがあります。
また、春に、庭にとうもろこしの種を埋め、芽が出たのを毎日待っていたことも忘れられません。きれいな緑色の芽は、チューチップの葉っぱの赤ちゃんみたいです。何列に並んでいて、とてもかわいらしかった。
でも、ある日、放課後急いでとうもろこしを見に行ったら、一本もなかった。
鶏に食べられたのです。
私は大泣きをしました。母がそんな私を見て、ただ静かに笑っていました。今の私が、ジャジャの泣き顔を見たときと同じです。
もう一回、庭にそらまめの種を埋めました。春になると、そらまめの背がぐんぐんと伸び、すぐ私を追い超えました。
でも、ほとんど実らなかった。
また、母がいつもの静かな笑顔を見せてくれました。
小さい頃の生活は、毎年の年末借金が残るほどでした。親が言わなくても、子供はみんな分かっていました。今は、母でも「年収」という言葉を使い、携帯まで持っています。畑の仕事しかない母は、なんで携帯を持ってるでしょうと考えたら、一人でも大笑いしてしまいます。
笑ったら、また寂しい気持ちにもなります。母の携帯は、弟たちが気軽にかけられますが、私にはできません。こちらからかけたら、私だけでなく、母もお金を払うことになります。
母の携帯も、私を拒否しています。
おばあちゃん子だった私は、今でも、母の公平さを疑っています。天でも登れそうな腕白息子三人をそばにおいて、私だけをおばちゃんのおうちに送ったのです。
その寂しさがなければ、今の私は、日本に来てないかもしれません・・・かもしれません。
話が違ってきました。
最初から言いたかったのは、私の小さい頃、母は庭に何も可愛いものを植えなかった。果樹一本とか、お花一株とか。何もなかった。
そんな地味な母、センスのない母、かわいい趣味の持ってない母でした。私は、すくなくとも、一度ぐらいでも、きっと母のことを、そんなふうに思っていました。
今、母の庭には、葡萄の木、夏目の木、柿の木、梨の木・・・しかも、一年中野菜が使いきれないほど植えています。
その果実も野菜も、私は一口食べられません。
これも不公平だと、こっそり思っています。
でも、今朝思ったのは、もっと違うことです。
母も、今、いろんな木を植えたり、お花を植えたりしていますね。
やっぱり、子供たちが大きくなったから、母にも余裕ができたじゃないかと思いました。
そんな余裕の出来た母、携帯を手に持って誰かと話している母と、もう一度畑の仕事に行きたいと思っています。畑がなくなったら、庭でお花の話でもしたいと思っています。とうもろこしの話でも、そらまめの話でも。なんでもいいでしょう。
ジャジャとトトのおかげで、母のことを、こういう風に考えるようになりました。わがままなジャジャは、今、日本語や日本のことについて、ママのことをよく「ばか」だと言っています。
でも、将来、ママのことを、どういう風に思うでしょう。
今のわがままさを、許しましょう。
2010年10月13日 (木) 晴
朝、洗濯物を干したら、ベランダから近所のある庭を眺めました。
その庭は、秋がぜんぜん訪れてないように、緑に覆われているのです。低い木の葉っぱの後ろから、木綿の鮮やかな花が、たくさん咲いていました。まるで個々の子供の笑顔のようです。
小さい庭でした。
といっても、このあたりでは、もう十分贅沢なお庭です。5坪ぐらいでも。
母の庭は、何倍になるでしょう。私は説明しにくいとき、いつも友達にこういいますーー
「ゴルフ練習場みたい。」と。
家の前と後ろ全部あわせれば、ゴルフ練習場の大きさぐらいかなと思いました。実はそれほどは大きくない気もします。小さい頃の私には、その庭は大きすぎる。今の私には、ゴルフ練習場でも普通の大きさです。
ということです。
小さいころ、他の家の庭には、いつも棗の木や柿の木や、梨の木などあります。うちだけは、ただの庭でした。果樹は一本もなかったことです。
お花ももちろんなかった。
私の小さいころ、周りのお家のお花がすきで、よく分けてもらい、家の庭にも植えたりしてました。でも、弟たちがいたずらがすきで、いろんな水をお花にかけました。長生きできたお花は、菊だけでした。
その白く、丸い小菊は、秋の青い月光を浴びた様子を、私は一度だけ見たことがあります。
また、春に、庭にとうもろこしの種を埋め、芽が出たのを毎日待っていたことも忘れられません。きれいな緑色の芽は、チューチップの葉っぱの赤ちゃんみたいです。何列に並んでいて、とてもかわいらしかった。
でも、ある日、放課後急いでとうもろこしを見に行ったら、一本もなかった。
鶏に食べられたのです。
私は大泣きをしました。母がそんな私を見て、ただ静かに笑っていました。今の私が、ジャジャの泣き顔を見たときと同じです。
もう一回、庭にそらまめの種を埋めました。春になると、そらまめの背がぐんぐんと伸び、すぐ私を追い超えました。
でも、ほとんど実らなかった。
また、母がいつもの静かな笑顔を見せてくれました。
小さい頃の生活は、毎年の年末借金が残るほどでした。親が言わなくても、子供はみんな分かっていました。今は、母でも「年収」という言葉を使い、携帯まで持っています。畑の仕事しかない母は、なんで携帯を持ってるでしょうと考えたら、一人でも大笑いしてしまいます。
笑ったら、また寂しい気持ちにもなります。母の携帯は、弟たちが気軽にかけられますが、私にはできません。こちらからかけたら、私だけでなく、母もお金を払うことになります。
母の携帯も、私を拒否しています。
おばあちゃん子だった私は、今でも、母の公平さを疑っています。天でも登れそうな腕白息子三人をそばにおいて、私だけをおばちゃんのおうちに送ったのです。
その寂しさがなければ、今の私は、日本に来てないかもしれません・・・かもしれません。
話が違ってきました。
最初から言いたかったのは、私の小さい頃、母は庭に何も可愛いものを植えなかった。果樹一本とか、お花一株とか。何もなかった。
そんな地味な母、センスのない母、かわいい趣味の持ってない母でした。私は、すくなくとも、一度ぐらいでも、きっと母のことを、そんなふうに思っていました。
今、母の庭には、葡萄の木、夏目の木、柿の木、梨の木・・・しかも、一年中野菜が使いきれないほど植えています。
その果実も野菜も、私は一口食べられません。
これも不公平だと、こっそり思っています。
でも、今朝思ったのは、もっと違うことです。
母も、今、いろんな木を植えたり、お花を植えたりしていますね。
やっぱり、子供たちが大きくなったから、母にも余裕ができたじゃないかと思いました。
そんな余裕の出来た母、携帯を手に持って誰かと話している母と、もう一度畑の仕事に行きたいと思っています。畑がなくなったら、庭でお花の話でもしたいと思っています。とうもろこしの話でも、そらまめの話でも。なんでもいいでしょう。
ジャジャとトトのおかげで、母のことを、こういう風に考えるようになりました。わがままなジャジャは、今、日本語や日本のことについて、ママのことをよく「ばか」だと言っています。
でも、将来、ママのことを、どういう風に思うでしょう。
今のわがままさを、許しましょう。
by chinamama377
| 2010-10-14 14:15
| 育児日記